すみっこ(ウクライナ)で見た、聞いた、考えた

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ゾマホン

ビートたけし&付き人ゾマホンがアフリカに小学校を作ったぞSP
12/27(月) 前09:55 >> 前11:25  テレビ朝日

というTV番組を見たので、とりあえず忘れないように挙げておく。
ゾマホンのホームページ


すみっこ(ウクライナ)で見た、聞いた、考えた
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by exist2ok | 2004-12-27 11:47 | 雑感

メキシコ

から電話がかかってきた。
誕生日を祝うためのものだった、ありがたい。
生後二ヶ月から一歳半以上になるまで一緒だったパトリシアはもう言葉をしゃべる。いつのまにか4歳になっているのだからさもありなん。
「いつくるの?」なんて訊かれては、カツおじさんとしては行くほかなくなってしまうではないか!
非常にメキシコが恋しくなったのだった。ということで6月以降9月までの休暇中は、メキシコに帰る可能性あり。


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by exist2ok | 2004-12-24 17:10 | 雑感

国立能楽堂 企画公演

2004年12月23日(木) 13:00

おはなし  松岡心平
復曲能  箱崎(はこざき) 観世清和

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率直に言って、素晴らしい公演だった。今回のものは廃曲になってしまった元々の「箱崎」とは似ても似つかない代物であるに違いない。しかし、宗家の作った神功皇后の装束、囃子の出来は他の既存曲からはなかなか感じ取ることのできない見せ場の充満したものだった。出端やイロエでの高揚した囃子の激打ち。一般曲の公演でこれほど囃子方大活躍の場面にお目にかかることはないのではないか。

観世清和宗家は前シテの里女のときから声の出し方が女性的でないと感じたが、これはひょっとすると神功皇后が応神天皇を宿しながら韓半島遠征を指揮したというその豪気な性格ゆえかと思う。

元の天女之舞がどうであったかは現在では知る術がないが、復元されたこれもまた素晴らしかった。戒、定、恵の三学の妙文を忠岑に渡しながら舞う。次々と巻き物がひもとかれていくそばで天空を舞台に舞い飛ぶ天女の姿がそこにはあった。知り合いにきいたところ、「羽衣」の舞に類似しているとのことだった。橋懸かりの奥までずーっと退いていき、幕の手前で舞台を眺めながら扇を打ち仰ぐ。ぼくはこれを天空を突き抜け宇宙にまで飛び出したと感じた。それほど気宇壮大な舞だったのだ。
シテが飛び去ったあとを放心して見送るワキの虚脱感は見所も共有していた。というか、舞がはじまるといつのまにか見所はワキと同化しているのだ。
異質な空間が突如開けそしてその裂け目にはいと幻想的な世界が広がっている。そこからまた日常に戻される、この幻覚をみたようなトリップの感覚こそ能の世界なのだ。そんな幻覚など錯覚だというだろうか。それは能を見たことのない者の言う戯言である。


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by exist2ok | 2004-12-23 22:47 | お能

サルトル 「汚れた手」

ジャン=ポール・サルトル
「汚れた手」「墓場なき死者」
サルトル全集 第七巻 人文書院
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知識人と労働者との懸隔、教条主義、暗殺、目的と手段の倒錯、、、
暗い時代の共産主義運動のエッセンスを抽出した傑作戯曲。
手段が目的を食いつぶしてゆく革命思想の矛盾。実存主義は不条理の前に立ち尽くす”我”の思想なのだと改めて確認した次第。
物語に主体的に関わっていないかに見えるユゴーの妻ジェシカの存在が、終盤にわかに重要になる点まで含めて象徴的な作りになっている。作中にも名指しされるように、ユゴーにとって彼女は「贅沢品」だ。それは彼の出自に等しく対応した存在である。だから、エドレル射殺のきっかけが彼女であることは、物語の根幹に関わるほど重要だ。
「政治は科学であり、自分の正しさを証明できる」とする理論の皮が剥がれたとき、そこにユゴーの生身の判断基準があらわれるからである。


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by exist2ok | 2004-12-22 22:04 | 読書

国立能楽堂 定例公演

2004年12月17日(金) 18:30
狂言「若市(にゃくいち)」
シテ茂山千之丞、アド茂山千五郎、茂山千作、立衆茂山宗彦、茂山逸平、茂山童司、佐々木千吉、丸石やすし

能「鉢木黒頭」
シテ近藤乾之助、ツレ今井泰行、ワキ宝生 閑、アイ茂山正邦ほか、地頭佐野 萌

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若市は茂山千五郎家の豊富な人材を惜しみなく使った一大スペクタクル。奇才千之丞=住持のいたずら心に満ちた嬲り方、千五郎扮する尼の悔しがり方、ともに役柄に嵌まり込んで分かりやすい舞台だった。後半、若市たちが住持と対決する場面では、地謡をバックに取っ組み合いという能のパロディー丸出し。住持と尼は武器を捨てくんずほぐれつの取っ組み合いでおおいに会場を沸かせていた。
残念なことは稽古不足か、各人セリフや謡の文句を間違えること甚だしく、集中力が弛緩しがちで雑駁な印象の舞台になってしまった。
アドの何某で登場した千作師の底抜けな声がとても印象的だった。

~~~~~~~~~~~~~~~

宝生の特徴なのだろうか、言葉が空間に溶け込んでいくような謡いである。メロディーにのせきらずに言葉としての謡いを意識させる。そのことはツレの今井泰行師が旅僧を留めようとシテの常世を説得する場面で気づいた。

ワキ:あさましや我等かやうに衰ふるも、前世の戒行拙き故なり、せめてはかやうの人に値遇(ちぐ)申してこそ、後の世の便りともなるべけれ、然るべくは御宿を参らさせ給ひ候へ

「なるべ」でとめ、充分間を置いて「け~れ~」、「給ひ、、、」「そ~ぅらえ~」と続ける。そうと気づくと近藤師の謡いは沈黙のしじまに浸潤していく気品にみちた声であることが明瞭になった。落ちぶれ武士の気骨・矜持が物語の主題であるが、それよりも貧しさにも失わない気品を表現していたのが今回の公演だったといえるかもしれない。

余談だが、これは観阿弥または世阿弥の作と記録されているようだが、観阿弥はさておき世阿弥がこのように分かりやすく世俗的な作品を作るとは到底思えない。


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by exist2ok | 2004-12-17 22:14 | お能

国立劇場大劇場 12月歌舞伎公演

「花雪恋手鑑・勧進帳」
2004年12月4日(土) ~ 12月26日(日)
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 金澤龍玉=作   
 奈河彰輔=監修
花雪恋手鑑(はなふぶきこいのてかがみ) 二幕六場

上の巻 東山狩野別荘の場
真葛ヶ原裏道の場
下の巻  高津社南坂の場
       野戸町 四ッ辻の場
       同 妾宅塀外の場
       同 奥座敷の場

歌舞伎
十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)
長唄囃子連中
 松本 幸四郎
 市川 染五郎
 中村 芝雀
        ほか

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by exist2ok | 2004-12-14 21:08 | 芸能

国立能楽堂 普及公演

2004年12月11日(土) 13:00
解説・能楽あんない
実盛の生と死をめぐって 西田直敏
狂言 簸屑(ひくず) 野村 萬(和泉流)
能   実盛(さねもり) 坂井音重(観世流)
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解説では「平治物語」「平家物語」など軍記物に描かれる実盛の人となりを紹介。また、二百数十年後の世阿弥の時代、実盛の幽霊が篠原にあらわれるという噂が立ったことがあり、そのことが世阿弥をして能「実盛」を書かせる直接の原因になったとのこと。

中入り間際の遊行上人との問答。
シテ: われ実盛が幽霊なるが、魂は冥土にありながら、魄(はく)はこの世に留まりて
ワキ:なほ執心は閻浮の世に
シテ:二百余歳の程は経れども
ワキ:浮かみもやらで篠原の
シテ:池のあだ波夜となく
ワキ:昼とも分かで心の闇の
シテ:夢ともなく
ワキ:現ともなき
シテ:思ひをのみ、篠原の、草場の霜の翁さび、
地謡:草場の霜の翁さび、人な咎めそ仮初めに、顕れ出でたる実盛が、名を洩らし給ふなよ、亡き夜語りも恥づかしとて、御前を立ち去りて、行くかと見れば篠原の、池の辺にて姿は、幻となりて失せにけり、幻となりて失せにけり。


今回の地頭は観世銕之丞師。繊細な中にも緊張の張り詰めた響きが素晴らしい。それが地謡の中からかすかに漏れ聞こえる。前半は中入り直前を除き出番がないが、後半俄然地謡が重要になる。後の出はほとんどシテとの掛け合いで進むロンギと地謡の語りで埋められている。

実盛の化身である翁の姿はワキの遊行上人にだけ見える。一旦池の辺で姿を消すが今度は甲冑を纏って現れる。
途中、、、、


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by exist2ok | 2004-12-11 17:48 | お能

国立劇場小劇場 12月文楽鑑賞教室

2004年12月7日(火) ~ 12月19日(日)
午前の部 11:00開演
午後の部 14:00開演
日曜    16:00開演

伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいひがのこ)
        火の見櫓の段
解説文楽のたのしみ
        義太夫節について
        人形の遣い方
近松門左衛門=作
平 家 女 護 島(へいけにょごのしま) ─俊寛─
        鬼界が島の段
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謡曲「俊寛」に想を得た作品はいろいろあり、少し前には芥川龍之介の短編「俊寛」をよんだが、今回の人形浄瑠璃(文楽というのは俗称なので、こちらが正式な呼び方)も原作を大いに換骨奪胎したダイナミックなものに仕上がっていた。お能では生き地獄でようやく生をつないでいるひねくれた人間が打ちのめされる絶望と悲嘆を陰鬱に描くが、文楽では人情と正義の徒としての俊寛僧都の像を打ち出した大衆好みでスケールの大きいものに仕上がっている。
赦免使が康頼と成経の恩赦を伝え、とりのこされた俊寛が嘆くところまでは同じ。ところがなんと別の赦免使が現れ俊寛も帰京を許されることが判明! 喜びも束の間、島での成経の女千鳥の同行が許されない。抗う三人は無理矢理船に乗せられ、後に取り残された千鳥は嘆き悲しみ死のうとする。そこへ俊寛が戻って身代わりに残ろうと慰める。赦免使の瀬尾から都に残した妻が清盛に殺されたことをしらされた俊寛は都へ帰る意味がなくなったと言うのだ。しかし瀬尾はその俊寛の身代わり案を撥ねのけ問答になるを境に物語りは急展開する。
隙を見た俊寛は相手の刀を抜き取り斬りつける。これで再び罪人となり、かわりに千鳥を船に乗せることが出来るというわけだ。手負いの瀬尾と体力の衰えた俊寛、この二人の斬り合いが続く。途中、千鳥が倒れた瀬尾を棒で叩いて加勢するシーンが笑いを誘うが、いかにも大衆好みな笑いで気持ちが良い。
ついに瀬尾の首を切った俊寛は、もう一人の赦免使丹左衛門に千鳥の乗船を承諾させ一人島に残る。遠ざかる船を見送る為によろよろと岩山にのぼり手を振る俊寛。岩山を登る足づかいのリアルさは、とても言葉では言表わせない。
己の決断とはいえ、寂しさと心細さで松ノ木にしがみつき手を振り叫ぶ。岩山全体が舞台正面にせり出してくる最後は圧巻。義太夫節のキリの部分のテンポと歯切れの良さだけでも味わってもらいたい。

”思い切つても凡夫心(ぼんぷしん)、
岸の高見に駆け上がり、
爪立てて打ち招き浜の真砂に伏し転び、
焦れても叫びても、
哀れ訪(とぶら)ふ人とても、
なく音(ね)は鴎天津雁(かもめあまつかり)、
誘ふは己が友千鳥、
ひとりを捨てて、
沖津波、
幾重の袖や濡らすらん”


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by exist2ok | 2004-12-09 13:20 | 芸能

花よりも花の如く

お能を扱ったマンガ
いわゆる「内部事情」をとても良く描けている。しきたりの正確な描写は並大抵の努力でできるものではない。実際銕仙会の協力を得て、細かなしぐさの差違にまで銕之丞師から逐一指摘を受けて修正しながら作っていったとのこと。作者の観察と努力の結果でそれはとても頭が下がる。
しかし、これは能の面白さを全く描けてない作品でもある。能楽界という人材的に非常に狭い世界の「内輪話」は、あくまで副次的な興味の対象にはなるだろう。だが、すでに興味を持った人、または習い事としている人が自己同一性を発見して喜ぶ対象にはなり得ても、能を楽しむことは裏方を覗きこむ好奇心とは本質的に関係がない。
少女フェミニズムの習い事的オナニズム(少女マンガの存在そのものがその牙城なのだが)は、全ての芸事(バレエ、クラシックなども)を汚染している。
わずかに物語のアウトラインに能の主題が関連付けられるのみである。能のなにが人を惹きつけるのかが無視され、ひたすら上滑りに関係者の内部事情が正確に淡々と描かれる。主人公にとってそれはただの規則であり生活である。己の位置に安心立命した終わりなき日常。それこそ少女フェミニズムだ。
能の物語にも、世阿弥の著作を読んでもそこには溢れるばかりの想像力とドラマトゥルギーが満ちているのに、その万分の一の共感もない。世阿弥があることを言っているとき、何故そうなのかを問う姿勢がなければ規則は頚木以上の価値を持たないだろう。


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by exist2ok | 2004-12-04 21:34 | お能

予約し損ね

銕仙会一月の公演で銕之丞師が「翁」を舞うので楽しみにしていたのだが、予約を甘く考えていた。既に売り切れ状態。キャンセル待ちでは碌な席がとれまい。
4日の草紙洗小町と宗家の翁に賭けるしかない!(幸いにしてこちらの予約はまだ始まってない)

一年間見続けてきたお能ともしばらくお別れである。取り敢えず、直接の収穫は白洲正子を知ったことだ。この人の博識とそれにとらわれず軽やかに本質をつく直観力にはほんとうに脱帽する。当たり前にものを言っているように納得させられるが、その実、教養のバックボーンがしっかりしていないとこういうことは独善的に聞こえるものだから。

そしてこれはもう本当に消化できるか否かも分からないが世阿弥。花伝書を読んだことがある人は多いだろうが、己の常識に引き当てて読むのが関の山だろう。そういうことで古典に触れても高が知れている。表面的には理解しやすく書いてあるが、その意味するところを会得する為に張り巡らされた注意力に思いを致すと目眩がしてくる。

ということで、いよいよ白洲正子の「世阿弥」に突入。

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by exist2ok | 2004-12-02 23:22 | 雑感



メキシコ、N.Y. L.A.そして現在はウクライナのハリコフ市に住むおがわがお伝えします。コメント・TB大歓迎です。どんどん絡んでくださいね。
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