すみっこ(ウクライナ)で見た、聞いた、考えた

カテゴリ:芸能( 4 )

もはやブームではない!?文化的評価が高まる「お笑い」 について

本当にそんなに楽観的な話なんだろうか? 

むしろ芸の精進とともに芸能界内でのまさに日本的な人間関係に食い込めた者こそが残っていくのであって、それが芸のレベルの底上げになっているとは到底思えない。北野たけしや爆笑問題は芸の下積みと実力があって成功し、そこからはじめてもともと別の分野について持っている力を開陳できた(彼らはそのごく初期から自分たちのやりたいことを明確にしている)。しかし、それだけの深さがもともとない芸人に何が起きているかということは、ばかるでぃ(現:さまぁ~ず)やとんねるずやその他多くのコンビが端的にあらわしていると思う。


今のお笑い芸人たちはあるレベルに到達した時点でその芸が突然消滅してしまう。
ぼくが子供のころから同時代で見てきたコンビに「とんねるず」があるが、まさに駆け出しのころの「みなさんのおかげです」での彼らの体を張ったがんばりと笑いの内容の濃さは明らかに芸と呼べるものだったと思う。
しかし、そこから現在の「みなさんのおかげでした」に目をやるとそこにはもはや芸はまったく認めることができない。現在のとんえるずのあの姿こそ芸能界における終わりなきマスターベーションを愚民(トークや食べ歩き、旅行番組を量産し、そこにお笑い芸人を送り込めばいくらでも番組が出来上がると思っていると業界は明らかにそう見なしているだろう。でなければこの異常な数のトーク番組をどう説明するのか!?)に「芸」として信じさせることに成功した現代日本の病理体質そのものではないかと思うのだ。そこにいったいどんな芸の発達がありうるというのだろう?


先ごろ淫行問題で追放された「極楽とんぼ」の山本について興味深いことを耳にした。吉本は大して芸があるわけでもなく、人脈の面から業界に食い込むことで仕事を確保し、しかも若手芸人をけしかけて賃上げの突き上げをする山本が目障りだったので、この機会に切り捨てたという話だ。
現在、山本と同じような状況でテレビに出演する芸人がどれほどいるかを見てみれば、それがお笑い文化のサブカル脱却化→ポップ・カルチャー化へなどと口が裂けてもいえないのではないかと思うのだけど。




もはやブームではない!?文化的評価が高まる「お笑い」

 04年辺りに発生した「お笑いブーム」は、その後も衰える様子を見せず、現在も勢いを保っている。そんな中で、今年1月に出版された、劇団ひとりの小説『陰日向に咲く』は、現在50万部を超えるベストセラーとして、芸能界、出版界ともに大きな話題を呼んだ。さらに、3月には、爆笑問題が漫才師としての肩書きで、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するというニュースが飛び込んできた。これらのことが象徴するように、ここに来てお笑いというジャンルは音楽や映画とともに、主要エンタテインメントを扱うポップ・カルチャーの中で語られる時期に来たのではないだろうか( 写真はこちら )。

(中略)

 だがここに来て、ようやく状況は変わりつつあるように見える。冒頭で述べた爆笑問題の芸術選奨は、深夜番組『爆笑問題のススメ』が対象になったもので、バラエティのジャンルからの受賞は、設立以来初のことだった。また『陰日向に咲く』は、小説でありながらも明らかに劇団ひとりのひとりコントの延長線上に書かれたものであり、この作品が「『なりきり芸』に感心」(斎藤美奈子「文芸予報」、『週刊朝日』連載)といった、コント芸にリンクさせた評価を、文芸批評の中で受けたことは、「お笑い業界」全体にとっても、エポックメイキングな出来事といえる。

 こうした状況の変化は、今も続くお笑い人気が作り出したことは間違いない。今回のブームが、前回までのものと大きく違うのは、人気が長期間持続しているのに加えて、メインで活躍する芸人が従来と比べ物にならないくらい増えている点である。実に様々なタイプの芸人を、日常的にテレビで見ているうちに、視聴者自身が意識するかどうかは関係なく、自然と芸を見る目は養われていくもの。また、多くのブログやSNSで、お笑いライヴのレポートが頻繁にアップされているのを見ても、全体的に笑いに対する関心度が高まってきていることが分かる。

 ただ、お笑いをポップ・カルチャーとして批評する際に、理解してもらいたいのは、音楽や映画と同じく「評価軸はひとつではない」ということである。例えば、オリジナリティ面では劣っている芸であっても、それを補えるだけの親しみやすさをもっていれば、その芸人は十分評価に値するといえるだろう。そこのところを無視した、一元的な批評ばかりになってしまえば、却ってお笑いの世界を味気のないものに変えてしまう恐れもある。そういった偏った評価を避けるためにも、過去の歴史を振り返り、現代の視点で再評価することが、今後重要になってくるのではないか。

 お笑いがポップ・カルチャーのひとつとして広く認識されたとしても、何も芸人が文化人やアーティストの位置に納まるべきではないだろう。常に観客、視聴者の期待に応えながらも、自らクオリティの高さを追及していく「アルチザン」こそが、お笑い芸人の目指す道なのだから。(文/広川たかあき)
(オリコン) - 8月26日10時30分更新

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by exist2ok | 2006-08-26 23:53 | 芸能

ピナ・バウシュ「カフェ・ミュラー」

ぼくにはダンスのことは詳しく分からないが、彼女のダンスの大きな特徴である同時進行の動き、踊りの共時性には強くひかれる。これはクラシックの枷を離れたノイエ・タンツの必然的通過点であるとも思える。

彼女自身は解釈や一元的な意味を加えることを戒めているが、今回番組で述べた「愛の受容と苦痛」という言葉の一端から、そのイメージは推し量ることはできる。

ダンサー・俳優らは自分たちで役柄の特徴や性格などのかなり具体的なイメージを持っているようだが、それらの役柄は、例えばワーグナーの楽劇におけるライトモチーフによる性格づけとはまったく異なる性格のものだ。つまり、演者自身によるイメージは必ずしも全体において明確な立場を表明しているわけではないし、また、確固たる重要性を主張できているわけでもない。世界を構成する円環は円満に完結していない。

あるパーソナリティーはあくまで自己主張はするが、それは必ずしも彼・彼女以外の人物にとって意味を持っているわけではない。それぞれは「己の愛」を主張し、求めるわけだがそれは環境によって十分に受け入れられるわけではない。それがある規則性をもって繰り返される登場人物の動きに反映されている。


彼女のダンスは理解されないことの不安が同時に愛の希求であることの痛ましい表現のような気がしてならない。

NHK教育 芸術劇場 2006年8月13日(日)放送


【劇場中継】 22:33~23:17
●ピナ・バウシュ「カフェ・ミュラー」

<演出・振付> ピナ・バウシュ
<美術・衣裳> ロルフ・ボルツィク
<音 楽> ヘンリー・パーセル
<出 演> ピナ・バウシュ、ドミニク・メルシー ほか

ヴッパタール舞踊団
<収 録> 2006年4月14日 東京・国立劇場 大劇場

世界的な振付家、ピナ・バウシュの代表作で、本人が出演する唯一の作品、「カフェ・ミュラー」。カフェの簡素なセットの中で、六人の男女が、出会い、すれ違い、別れを繰り広げる。タンツテアターと呼ばれる独自の表現を切り開いてきたバウシュの原点でもある本作は、1986年初来日の際に上演されて、日本のダンス・演劇界に衝撃を与えた。日本での20年ぶりの上演を機に紹介する。

※ピナ・バウシュ 
(1940ドイツ生まれ、 ヴッパタール舞踊団芸術監督、振付家・ダンサー)

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by exist2ok | 2006-08-14 02:16 | 芸能

国立劇場大劇場 12月歌舞伎公演

「花雪恋手鑑・勧進帳」
2004年12月4日(土) ~ 12月26日(日)
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 金澤龍玉=作   
 奈河彰輔=監修
花雪恋手鑑(はなふぶきこいのてかがみ) 二幕六場

上の巻 東山狩野別荘の場
真葛ヶ原裏道の場
下の巻  高津社南坂の場
       野戸町 四ッ辻の場
       同 妾宅塀外の場
       同 奥座敷の場

歌舞伎
十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)
長唄囃子連中
 松本 幸四郎
 市川 染五郎
 中村 芝雀
        ほか

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by exist2ok | 2004-12-14 21:08 | 芸能

国立劇場小劇場 12月文楽鑑賞教室

2004年12月7日(火) ~ 12月19日(日)
午前の部 11:00開演
午後の部 14:00開演
日曜    16:00開演

伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいひがのこ)
        火の見櫓の段
解説文楽のたのしみ
        義太夫節について
        人形の遣い方
近松門左衛門=作
平 家 女 護 島(へいけにょごのしま) ─俊寛─
        鬼界が島の段
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謡曲「俊寛」に想を得た作品はいろいろあり、少し前には芥川龍之介の短編「俊寛」をよんだが、今回の人形浄瑠璃(文楽というのは俗称なので、こちらが正式な呼び方)も原作を大いに換骨奪胎したダイナミックなものに仕上がっていた。お能では生き地獄でようやく生をつないでいるひねくれた人間が打ちのめされる絶望と悲嘆を陰鬱に描くが、文楽では人情と正義の徒としての俊寛僧都の像を打ち出した大衆好みでスケールの大きいものに仕上がっている。
赦免使が康頼と成経の恩赦を伝え、とりのこされた俊寛が嘆くところまでは同じ。ところがなんと別の赦免使が現れ俊寛も帰京を許されることが判明! 喜びも束の間、島での成経の女千鳥の同行が許されない。抗う三人は無理矢理船に乗せられ、後に取り残された千鳥は嘆き悲しみ死のうとする。そこへ俊寛が戻って身代わりに残ろうと慰める。赦免使の瀬尾から都に残した妻が清盛に殺されたことをしらされた俊寛は都へ帰る意味がなくなったと言うのだ。しかし瀬尾はその俊寛の身代わり案を撥ねのけ問答になるを境に物語りは急展開する。
隙を見た俊寛は相手の刀を抜き取り斬りつける。これで再び罪人となり、かわりに千鳥を船に乗せることが出来るというわけだ。手負いの瀬尾と体力の衰えた俊寛、この二人の斬り合いが続く。途中、千鳥が倒れた瀬尾を棒で叩いて加勢するシーンが笑いを誘うが、いかにも大衆好みな笑いで気持ちが良い。
ついに瀬尾の首を切った俊寛は、もう一人の赦免使丹左衛門に千鳥の乗船を承諾させ一人島に残る。遠ざかる船を見送る為によろよろと岩山にのぼり手を振る俊寛。岩山を登る足づかいのリアルさは、とても言葉では言表わせない。
己の決断とはいえ、寂しさと心細さで松ノ木にしがみつき手を振り叫ぶ。岩山全体が舞台正面にせり出してくる最後は圧巻。義太夫節のキリの部分のテンポと歯切れの良さだけでも味わってもらいたい。

”思い切つても凡夫心(ぼんぷしん)、
岸の高見に駆け上がり、
爪立てて打ち招き浜の真砂に伏し転び、
焦れても叫びても、
哀れ訪(とぶら)ふ人とても、
なく音(ね)は鴎天津雁(かもめあまつかり)、
誘ふは己が友千鳥、
ひとりを捨てて、
沖津波、
幾重の袖や濡らすらん”


すみっこ(ウクライナ)で見た、聞いた、考えた
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by exist2ok | 2004-12-09 13:20 | 芸能



メキシコ、N.Y. L.A.そして現在はウクライナのハリコフ市に住むおがわがお伝えします。コメント・TB大歓迎です。どんどん絡んでくださいね。
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