すみっこ(ウクライナ)で見た、聞いた、考えた

カテゴリ:お能( 23 )

「中世の狂いと舞」考

能「三井寺」で狂女が狂言の頭を後ろからポカリと叩く場面がある。ぼくにとってこの場面は、中世に存在し今はもう消えてしまった「狂い」の質を垣間見せてくれる興味深いものである。
中世には受容されていた「狂い」。それは今日の精神病とは全く異なる。能に言及する多くの論者が説明していることなので繰り返さないが、至極簡単に言ってしまえば、それは執心から発した発作的・一時的な忘我状態である。「三井寺」では何の前触れもなくいきなり頭を叩くという行為から狂女にも物狂いなりの論理が存在することが透けて見えてくる。正常な者ならば丁寧に声をかけるところを狂女は頭を叩くのである。子を探す母の執心も表現し切っていることを思えば、この場面での劇としての能の表現力のすさまじさにただ驚くばかりである。
フーコーを持ち出すまでもなく「狂い」が監獄・病院などへ閉じ込められるようになるのは近代近くになってからである。そして、囲い込まれることによって単なる「狂い」が「精神病」に深化するのも近代以降であろう。それまでの世では、もちろん物狂いは往来で頻繁に目にすることが出来たし、「ちょっとおかしな奴」くらいの認識しか持たれていなかった。

僕の予想するところでは、おそらく600年前の当時の旅芸人のなかにはこうした「狂い」の忘我状態を歌舞にとりいれて興行した者がいたに違いない。初期の世阿弥も物まねを最高の表現法と考えている。観阿弥までの時代の垢抜けない物まねの申楽において鬼、男、女や老人にまじって物狂いが表現の対象となっていたとしても全くおかしくはない。そして後に述べるように物狂いの舞は当時では人気の、と言って悪ければ物珍しい歌舞だった。
ほとんど乞食の次くらいに卑しいとされていた芸人。白拍子は男性の格好をした芸人で、彼女らは舞手であると同時に夜をひさぐ売春婦でもあった。すぐ思いつく最も早い時期の白拍子といえば、清盛の寵愛を受けた妓王と仏御前がいるが、妓王は典型的に白拍子の身の浮き沈みの哀れさを表している。
能「隅田川」の狂女はまさしくこうした白拍子上がりの女ではないかと思われる。人商人にかどわかされた梅若丸の父について全く言及されていないのは、そうした背景が自明のことだからだろう。子を求めて一人、母は東国へ下ってゆく。

問題の場面は隅田川までやってきた母が舟人から舞を要求されるところである。ワキが渡し舟に乗り込もうとするときに辺りが騒がしくなって狂女が現れる。詳しく描かれていないが、ここは母が行き会う人毎に我が子の消息を尋ねて回っていることによる騒ぎであろう。つまり、母は子を探すに熱心なあまりなりふりかまわぬ態となっている。そして渡し守までやって来て舟に乗せろという。そこで舟人ははじめて「物狂いはおもしろく舞うものと聞いているので、ひとさし舞ってくれれば舟にのせてあげよう」と条件を出すわけである。このことから当時の巷間に「狂人の舞」なるものが見事であるという噂がまことしやかに語られていたことがわかる。
ところがこれは上記の「狂人を真似た旅芸人の舞」が本来の出所であって、狂女=舞の名人、では決してなかったのではないだろうか。能「隅田川」に関して言えば、狂女がたまたま元白拍子であったというに過ぎないと僕は考える次第である。

それはまた、別の面からも推理することが出来る。いくら忘我状態になった人間とはいえ、意味もなくそこら辺の空き地で踊っているだろうか。つまり、踊りを踊る以上そこには観客がいるのが当然であり、観客がいるということはその踊りは興行・見世物であるに違いない。そしてそれが興行であるからこそ、巷間に上るほど周知しているのである。素人の狂人の単発的な踊りが芸として見ごたえがあるものとなるとも、噂になるほどの広がりを持つとも思えない。それは組織的な旅興行の一座が出し物のレパートリーとして定着させることによってはじめて認知されたと考えるほうがはるかに自然である。
そして、であればこその「狂女の舞」なのである。


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by exist2ok | 2005-06-15 02:21 | お能

国立能楽堂 企画公演

2005年1月5日(水) 13:00

謡 神歌(かみうた) 阿部信之(観世流) 
狂言 縄綯(なわない) 茂山千作(大蔵流)
復曲能 原作 猩々(しょうじょう) 大槻文蔵 福王茂十郎

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by exist2ok | 2005-01-05 22:36 | お能

国立能楽堂 企画公演

2004年12月23日(木) 13:00

おはなし  松岡心平
復曲能  箱崎(はこざき) 観世清和

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率直に言って、素晴らしい公演だった。今回のものは廃曲になってしまった元々の「箱崎」とは似ても似つかない代物であるに違いない。しかし、宗家の作った神功皇后の装束、囃子の出来は他の既存曲からはなかなか感じ取ることのできない見せ場の充満したものだった。出端やイロエでの高揚した囃子の激打ち。一般曲の公演でこれほど囃子方大活躍の場面にお目にかかることはないのではないか。

観世清和宗家は前シテの里女のときから声の出し方が女性的でないと感じたが、これはひょっとすると神功皇后が応神天皇を宿しながら韓半島遠征を指揮したというその豪気な性格ゆえかと思う。

元の天女之舞がどうであったかは現在では知る術がないが、復元されたこれもまた素晴らしかった。戒、定、恵の三学の妙文を忠岑に渡しながら舞う。次々と巻き物がひもとかれていくそばで天空を舞台に舞い飛ぶ天女の姿がそこにはあった。知り合いにきいたところ、「羽衣」の舞に類似しているとのことだった。橋懸かりの奥までずーっと退いていき、幕の手前で舞台を眺めながら扇を打ち仰ぐ。ぼくはこれを天空を突き抜け宇宙にまで飛び出したと感じた。それほど気宇壮大な舞だったのだ。
シテが飛び去ったあとを放心して見送るワキの虚脱感は見所も共有していた。というか、舞がはじまるといつのまにか見所はワキと同化しているのだ。
異質な空間が突如開けそしてその裂け目にはいと幻想的な世界が広がっている。そこからまた日常に戻される、この幻覚をみたようなトリップの感覚こそ能の世界なのだ。そんな幻覚など錯覚だというだろうか。それは能を見たことのない者の言う戯言である。


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by exist2ok | 2004-12-23 22:47 | お能

国立能楽堂 定例公演

2004年12月17日(金) 18:30
狂言「若市(にゃくいち)」
シテ茂山千之丞、アド茂山千五郎、茂山千作、立衆茂山宗彦、茂山逸平、茂山童司、佐々木千吉、丸石やすし

能「鉢木黒頭」
シテ近藤乾之助、ツレ今井泰行、ワキ宝生 閑、アイ茂山正邦ほか、地頭佐野 萌

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若市は茂山千五郎家の豊富な人材を惜しみなく使った一大スペクタクル。奇才千之丞=住持のいたずら心に満ちた嬲り方、千五郎扮する尼の悔しがり方、ともに役柄に嵌まり込んで分かりやすい舞台だった。後半、若市たちが住持と対決する場面では、地謡をバックに取っ組み合いという能のパロディー丸出し。住持と尼は武器を捨てくんずほぐれつの取っ組み合いでおおいに会場を沸かせていた。
残念なことは稽古不足か、各人セリフや謡の文句を間違えること甚だしく、集中力が弛緩しがちで雑駁な印象の舞台になってしまった。
アドの何某で登場した千作師の底抜けな声がとても印象的だった。

~~~~~~~~~~~~~~~

宝生の特徴なのだろうか、言葉が空間に溶け込んでいくような謡いである。メロディーにのせきらずに言葉としての謡いを意識させる。そのことはツレの今井泰行師が旅僧を留めようとシテの常世を説得する場面で気づいた。

ワキ:あさましや我等かやうに衰ふるも、前世の戒行拙き故なり、せめてはかやうの人に値遇(ちぐ)申してこそ、後の世の便りともなるべけれ、然るべくは御宿を参らさせ給ひ候へ

「なるべ」でとめ、充分間を置いて「け~れ~」、「給ひ、、、」「そ~ぅらえ~」と続ける。そうと気づくと近藤師の謡いは沈黙のしじまに浸潤していく気品にみちた声であることが明瞭になった。落ちぶれ武士の気骨・矜持が物語の主題であるが、それよりも貧しさにも失わない気品を表現していたのが今回の公演だったといえるかもしれない。

余談だが、これは観阿弥または世阿弥の作と記録されているようだが、観阿弥はさておき世阿弥がこのように分かりやすく世俗的な作品を作るとは到底思えない。


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by exist2ok | 2004-12-17 22:14 | お能

国立能楽堂 普及公演

2004年12月11日(土) 13:00
解説・能楽あんない
実盛の生と死をめぐって 西田直敏
狂言 簸屑(ひくず) 野村 萬(和泉流)
能   実盛(さねもり) 坂井音重(観世流)
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解説では「平治物語」「平家物語」など軍記物に描かれる実盛の人となりを紹介。また、二百数十年後の世阿弥の時代、実盛の幽霊が篠原にあらわれるという噂が立ったことがあり、そのことが世阿弥をして能「実盛」を書かせる直接の原因になったとのこと。

中入り間際の遊行上人との問答。
シテ: われ実盛が幽霊なるが、魂は冥土にありながら、魄(はく)はこの世に留まりて
ワキ:なほ執心は閻浮の世に
シテ:二百余歳の程は経れども
ワキ:浮かみもやらで篠原の
シテ:池のあだ波夜となく
ワキ:昼とも分かで心の闇の
シテ:夢ともなく
ワキ:現ともなき
シテ:思ひをのみ、篠原の、草場の霜の翁さび、
地謡:草場の霜の翁さび、人な咎めそ仮初めに、顕れ出でたる実盛が、名を洩らし給ふなよ、亡き夜語りも恥づかしとて、御前を立ち去りて、行くかと見れば篠原の、池の辺にて姿は、幻となりて失せにけり、幻となりて失せにけり。


今回の地頭は観世銕之丞師。繊細な中にも緊張の張り詰めた響きが素晴らしい。それが地謡の中からかすかに漏れ聞こえる。前半は中入り直前を除き出番がないが、後半俄然地謡が重要になる。後の出はほとんどシテとの掛け合いで進むロンギと地謡の語りで埋められている。

実盛の化身である翁の姿はワキの遊行上人にだけ見える。一旦池の辺で姿を消すが今度は甲冑を纏って現れる。
途中、、、、


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by exist2ok | 2004-12-11 17:48 | お能

花よりも花の如く

お能を扱ったマンガ
いわゆる「内部事情」をとても良く描けている。しきたりの正確な描写は並大抵の努力でできるものではない。実際銕仙会の協力を得て、細かなしぐさの差違にまで銕之丞師から逐一指摘を受けて修正しながら作っていったとのこと。作者の観察と努力の結果でそれはとても頭が下がる。
しかし、これは能の面白さを全く描けてない作品でもある。能楽界という人材的に非常に狭い世界の「内輪話」は、あくまで副次的な興味の対象にはなるだろう。だが、すでに興味を持った人、または習い事としている人が自己同一性を発見して喜ぶ対象にはなり得ても、能を楽しむことは裏方を覗きこむ好奇心とは本質的に関係がない。
少女フェミニズムの習い事的オナニズム(少女マンガの存在そのものがその牙城なのだが)は、全ての芸事(バレエ、クラシックなども)を汚染している。
わずかに物語のアウトラインに能の主題が関連付けられるのみである。能のなにが人を惹きつけるのかが無視され、ひたすら上滑りに関係者の内部事情が正確に淡々と描かれる。主人公にとってそれはただの規則であり生活である。己の位置に安心立命した終わりなき日常。それこそ少女フェミニズムだ。
能の物語にも、世阿弥の著作を読んでもそこには溢れるばかりの想像力とドラマトゥルギーが満ちているのに、その万分の一の共感もない。世阿弥があることを言っているとき、何故そうなのかを問う姿勢がなければ規則は頚木以上の価値を持たないだろう。


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by exist2ok | 2004-12-04 21:34 | お能

国立能楽堂 定例公演

2004年12月1日(水) 13:00

狂言 素袍落(すおうおとし) 山本則俊(大蔵流)
能   葛城 大和舞(かづらき) 髙橋 汎(金春流)b0023505_2444790.jpg

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by exist2ok | 2004-12-01 15:59 | お能

「箱崎」鑑賞講座

11月29日(月)午後3時~5時
場所 国立能楽堂2階研修能舞台(絨毯敷き)
講師 観世清和、松岡心平、佐伯弘次

来たる12月23日の復曲能「箱崎」予習講座。
世阿弥の研究者であり、ガイド本「能って何?」の編者でもある松岡氏の話が一番興味を引いた。能「箱崎」成立の政治的背景には北朝である足利政権の九州統治の安定化があったという。

「箱崎()」のあらすじは、醍醐天皇に仕える歌人の壬生忠岑(みぶのただみね)が筥崎宮に参ると、月明かりの下、1本の松の木を恥ずかしげに掃き清める里の女がいる。木の下には神宝の戒(かい)・定(じょう)・恵(え)の三学の経文を収めた箱が埋まっている、と筥崎宮のいわれを語る。里の女は実は神功皇后の化身。経の入った箱を忠岑に見せ、天女の舞を舞う。(あらすじは産経新聞より)


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by exist2ok | 2004-11-29 18:51 | お能

喜多流職分会 11月自主公演能

11月28日 AM11:45
場所 十四世喜多六平太記念能楽堂

仕舞 
俊成忠度 松井俊介 
班女 友枝雄人
鞍馬天狗 大島輝久

能 鬼界島(きかいがしま) シテ 粟谷明生
狂言 子盗人(こぬすびと) シテ・盗人 野村万之介
能 三井寺(みいでら) シテ 佐々木宗生
仕舞 松虫 笠井 陸
能 枕慈童(まくらじどう) シテ 粟谷幸雄

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by exist2ok | 2004-11-28 22:45 | お能

国立能楽堂 特別企画公演

2004年11月25日(木) ~ 11月26日(金) 18:30
能   通小町 雨夜之伝(かよいこまち) 
25日 少将 梅若六郎(観世流)
---小町 観世清和
26日 少将 観世清和(観世流)
---小町 梅若六郎

朗読 卒塔婆小町(そとばこまち)
三島由紀夫作「近代能楽集」より
鴨下信一演出
---老婆 岸田今日子 
---詩人 茂山逸平b0023505_11152417.jpg

見たのは26日のみ。能は薄味な印象だった。

半演劇としての朗読。演劇ではなく、あくまで朗読とすることで文字・言葉を披露する舞台なのだという演出者の目論見がわかる。三島の作品が能の時空間を意識して作っている以上、その再現である舞台でぶち壊しにするわけには行くまい。演劇として演ずるなら、能の自在な空間・人物の転換を再現することはおそらく不可能である。とすれば、あらかじめ作品の不完全な再現であることに開き直った朗読という体裁をとらざるをえなかったことは至極納得がいく。演出の鴨下氏のアイデア勝ちである。
老婆役として岸田今日子ほどの適任はおるまいかと思う。その点非常に充実していた。


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by exist2ok | 2004-11-26 23:22 | お能



メキシコ、N.Y. L.A.そして現在はウクライナのハリコフ市に住むおがわがお伝えします。コメント・TB大歓迎です。どんどん絡んでくださいね。
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