ハリコフ・フィル演奏会10/15(土) 18:00
ショパンピアノ協奏曲第一番、ビゼー「カルメン」序曲、ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェル「『ダフニスとクロエ』第二組曲」
ピアノ マリヤ・ミロフスカ 実は九月から何度かコンサート、オペラに通っていたが感想を書く気がしなかった。幾分、失望していた面があったからである。内容ではなくレパートリーに関して。 ウクライナのコネ社会の構造が見えてくるにしたがって、一々の現象面に当てはめるとレベルの低さの原因に至極納得がいくようになってきたということだ。ハリコフ・フィルに関して言えば、音楽院の友人や自分のピアノの先生などの指揮者ヤンコにたいする評価は厳しい。それはコネ社会の中でうまく立ち回る人物としてその品行を俎上にあげた意見ではあるのだが、一面納得せざるを得ない。それは演奏会の質に関わってくるからである。 僕自身はヤンコの指揮については、統率が甘く解釈も上っ面なのでもう一歩踏み込みが欲しいところだが、アタッカのかけ方、クレッシェンドの盛り上がり方などは気に入っている(こうした「あざとさ」だけの演奏も褒められたものではないにせよ)。 しかし、プログラムについてはいわゆる「楽をしている」としか思えない。およそ三ヶ月前にラフマニノフ・フェスがあった際にチャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏している。そして今月十月、再びそれが予定されていた(変更になった)。また、同様にラフマニノフの協奏曲第三番も今月頭に再演されている。レパートリーの狭さは、そのままオーケストラの仕事量の少なさと同義だ。なぜなら、数回の全体リハーサルとそれに先立つ個々の演奏家の勉強が必要だからである。同じ作品を使い回せば、全体であわせるだけで、一々勉強しなおす必要はない。 誰でも気がつくようなサボタージュが批判の目にさらされないということは、何らかの利害関係によって守られているとしか思えない。 個々の演奏家についても、ソロ・パートでかなり疑わしい音を出す者が散見されるが、オーケストラの側に演奏レベルを維持または向上させる機能が働かないとすれば、それはなぜなのかと問わざるをえない。オーケストラの楽団員になることは収入の確保であり生活保障であるという面が第一で、演奏レベルは二の次というのでは本末が転倒している。
by exist2ok
| 2005-10-15 21:25
| 音楽
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