党派性
我ながら自分の「党派性」はどこに重点が置かれているのだろうか、はっきりしない。共産主義には自分の共感する部分もあるが、実際共産党政権成立や共産社会などになられても困る。
一方、トクヴィルやバークなどの鋭い保守主義やオルテガの大衆批判にも同意する点がかなりある。それは勉学を志して以降、枕頭の書としてきた王陽明の「傳収録」や「論語」の影響もあるだろう。宗教的偏向はまったくない、というか合理主義かつ大義名分論者(それはそれで矛盾しているが)であり、宗教の入り込む隙はいまのところない。 最近ようやく見えてきたことは、発展途上国「ウクライナ」では一部のマイナーな宗教関係者が全日本を代表するような顔をして国際交流を標榜していることである。ぼくの住むハリコフ市の日本人はぼくを除いてすべて韓国「統一教会」のメンバーである。彼らの歴史は十年以上も遡れ、往時は20人からが活動していたらしいのだが、いまは数人を残すのみであり、目だった活動もしていないようだ。 キエフには天理教の人脈があるらしいし、極めつけは、ウクライナの大使を招いて堂々と日烏国際交流をうたったセレモニーを開いてしまった「創価学会」など、こいつら一体何を企んでるんだ? と思わされる連中が一般の日本人の顔をして、ゆがんだ日本像をウクライナ人に刷り込んでいる。このセレモニーの様子は何と全ウクライナにテレビ中継され、そこで説明されていた内容はでたらめもいいところ、池田大作が日本を主導する人物であるかのような解説だった。 しかし実際、歴史上はじめて日本に到来したのも宣教師と商人であり、この二つの職業はそのままアダム・スミスの経済論を証明するとも思われるし、その意味では、いまだ日本人の絶対数が少ないウクライナで宗教関係者が多いことは当然と言えば当然かもしれない。 宗教というのは、こちらの言葉が通じない種類の最たるものである。人間同士の相互理解を理想とするヒューマニストのぼくにはかなりのショックな事実で今でも考える度に悲しくなるのだが「相互理解なんて絶対無理である」ということ。このことがわかるまで何年もかかってしまった。 誰にとっても故郷や自分が生まれ育った環境を懐かしく大切に思うことは当たり前のことと思う。しかし、もしも己の起源がはじめから合同結婚式を盲信する家庭だったり、「あのね、大作先生は神と位が同じお方なんだよ」って親から教え込まれたら? もうこれは、それ以外の社会の人と理解しあうなどということは絶対に不可能なのである。だから、ゆがんだ社会で生まれ育った人は生涯マイナーな信条を掲げて常識人と摩擦を起こしたり、矛盾に悩みながら生きてゆくほかない。でも、彼らが可哀相だからといって、こちらが勧誘されてやるわけにも行かないので、この溝は絶対に埋まらない。 同様に、宗教的・民族的対立も己の信条を固守しつつ解決したり、お互い理解しあうことなどできない。無関心と尊重による「棲み分け」しか解決方法はないのである。アメリカ国内の社会構造が良い例である。 そして境界を飛び出して異文化と交流・交配できるのは、常に自己のアイデンティティーを希薄にしか意識しない(または実際希薄な環境で育った)者だということ。 こんなぼくは親友と交わした磯釣りの計画だけを心の頼りに、帰国までの日数を指折り数える毎日をウクライナの片隅で送っている。 すみっこ(ウクライナ)で見た、聞いた、考えた
by exist2ok
| 2005-09-28 21:53
| 雑感
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